何ができないのか〜〈学問〉の省察20060329

苅谷剛彦著『大衆教育社会のゆくえ―学歴主義と平等神話の戦後史 (中公新書)中公新書

とても重要な指摘を引用します。

教育をめぐる議論には共通する特有のスタイルがある。あるべき理想の教育を想定し、そこから現状を批判する。批判そのものにはだれも異論はない。前提となるあるべき教育の理想には、だれも正面からは反対できない崇高な――抽象的な――価値が含まれている。一方、そうした教育の理想を掲げていれば、現実的な問題をどう解決するか、その過程でいかなる副作用が生じるかについての構造的把握を欠いたままでも、私たちは教育について多くを語ることができる。ここに教育をめぐる論議のもうひとつの特徴がある。

……

(教育をめぐる「常識的な」――引用者――)これらの議論の「正しさ」は、事実に照らした妥当性によって保証されるのではなく、社会での通用性によって確保されているのである。
しかも、このような通用性を背後で支えているのが、「本当の教育が実現すれば……」という、〈よきものとしての教育〉の信仰である。


97%が後期中等教育=高等学校へ進学する現在では、だれもが教育を、自らの直接的な経験から語ることができる。教育学者も教育者・教育行政関係者も、〈フリーター〉や〈ニート〉と呼ばれる人たちも「自分の教育論」をもっている。しかし、彼ら・彼女らが語るのは、多くが「理想の教育」「〈本当〉の教育」であり、いわばだれからも反論されない一般論である。
そのような一般論的教育論が「常識」として捉えられ、「妥当性を検証しなくても世の中に通用するものの見方」つまり「神話」を作り上げるのである。そうして「常識的な教育論」を信仰し、その体系を生きる人びと――もちろん自分自身もその成員の一人であるが――によって作り上げられた神話は、〈よきもの〉であるがゆえに批判の視線を受け付けてこなかった。こういった姿勢が教育を論じる時、その論理展開は当然「教育に何ができるか」という方向に規定される。
以上のように教育の常識的な論理を批判的に捉え、神話の構成にまで遡り考察する著者は、「教育に何ができるのかを考えるのではなく、何ができないのかを考えること」と提言する。

本書における著者の主張・批判は、「妥当性」と「通用性」の線引きという点で疑問は残るものの、多くの学問に当てはまるものであろう。

「何ができないか」を考えること。

池内了氏は『物理学と神 (集英社新書)』において、物理学の発展が神の存在証明という信仰に後押しされたものであったことを、非常に明解に、平易に、そして面白く書いていた。
そこに描かれたのは、乱暴に要約してしまえば、初期物理学の営みは否定神学の実践であるということであった。
「何ができないのか」という方法論は、まさに否定神学のそれである。
この春から法科大学院に学ぶ友人の話で、彼は学部時代から哲学に非常に深い造詣を示していたのだが、その彼の話に「法律にできない部分を、(たとえば)臨床心理の研究から助けてもらったり、自分がやってきた哲学が助けになっている」というものがあった。(今日ここで苅谷氏の著作に触れたのも、実は昨日、彼のそんな話を聞いて刺激をうけたからでした)
当該学問で何ができないかを考えることは、学際的研究という流れも手伝って説得性を持つ。しかしそのなかでひとつ納得しかねるのが哲学を一つの学問領域として捉える向きである。そこでは、多くが倫理学として哲学を捉えている。しかし本来哲学とはすべての学問の根本であり、いわば数学も物理学も医学も法学も心理学も、あらゆる固有の領域を持つ学問はすべてが哲学であるといえる。


「何ができないか」を考えるという方法を通して哲学の重要性が確認できたこと、苅谷氏の社会学的洞察もさることながら、友人との対話の大切さを再確認しました。。

なお「妥当性」と「通用性」という言葉から読み取れるのは、著者の実証主義的態度です。
苅谷氏を実証主義と捉えれば、「妥当性の検証」という言葉づかいも、「妥当性」に含まれる「通用性」の意味合いを捨象することも、納得がいきます。