学校20050830

「いろんな学校があるんだよ、坊や! 何も教科書持って自転車にのってゆく、黒板のある建物だけが学校だって訳じゃないんだよ。感化院が学校だったり、酒場が教室だったりするんだよ」
−−−寺山修二「毛皮のマリー


そう、学校は法に規定されない。
教育は、法以前の実在なのだから。

『「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス (光文社新書)』好井裕明著20060313

数ヶ月ぶり。
というよりも、新年初であったことに我ながら驚いています。


ここのところ良いことが続いています。
まずはその中のひとつ。
質的研究の心構えを丁寧に「記述」した二冊の本。


佐藤郁哉 『フィールドワークの技法―問いを育てる、仮説をきたえる新曜社
「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス (光文社新書) 好井裕明 『「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス (光文社新書)


特に好井さんの新書は250頁ほどでコンパクトに、しかしかなり包括的に「質的調査」の先行研究を概観しています。そのうえで質的調査のマインドを抽出、調査分析の概念までを射程に、あくまで社会学研究のための社会調査という位置付けから記述・分析が丁寧に著されています。
この、好井さんの著書のなかで最も興味深かったのは「カテゴリー化」への批判の眼差しです。
著者はこれを、私たちがあたりまえに行っているものと社会学的な営みとしてのものというように、ふたつの次元で語ります。批判の眼差しが向けられるのは前者。その内実は、たとえば男女の性別役割分業や権力構造といったものが一方的に男性から押し付けられているものではなく、相互補完的に構成されているものであるという論理と同様、「カテゴリー化」する外部からの視線と、「カテゴリー化」されその論理を生きる内部の実践とに共に批判的視線を向けるというものです。
これは、具体的には内部からの語りに見られる「外部の視線」を記述することが、ひとつの道となるでしょう。
(「外見的『自発性』」や「強制と自発性がないまぜになった心性」の社会学的な解明が課題のひとつとおっしゃっていた先生の関心が、今わかったような気がします)
この問題意識にはとても共感します。
しかし実際に研究論文を書こうとすれば、日常の営みとしての「カテゴリー化」と、社会学的な営みとしての「カテゴリー化」との線引きに、どのように正当性・妥当性を与えるかという疑問が残ります。
著者自身はこの点について決して多くを語っていませんが、「"生きられた"カテゴリー」というものが、何らかのヒントになるでしょう。
また、好井さんは「常識的信奉」という言葉を使って、日常生活世界を生きるひとびとの信憑性構造を表現しています。常識的信奉、信憑性構造、コード、認識の枠組み……おそらくこういった呼び方はいくつもあるのでしょう。そのどれが最もふさわしいかはゆっくり考えるとして、ともかくシュッツのあるいはより根源的にはフッサールの問題意識が息づいていることには嬉しく思います。その反面で、それがまさに常識になりつつあることに警戒しながらではありますが。
ふたつのレベルの「カテゴリー化」をめぐる問題は、学問論に連なる根の深い問題であるため、これについて多くが語られていないことは、本書に対するマイナス評価の要因とはなりません。むしろこれは、好井さんが課題として提示してくれたものでしょう。


本書は「質的調査」についての文献としては最も読みやすい部類に入るものでしょう。内容についても値段からしても(なんといっても新書で読める!)。
4月以降の社会調査系の授業で、必読文献に挙げられるのは間違いないでしょう。
掛け値なしに良書です。

何ができないのか〜〈学問〉の省察20060329

苅谷剛彦著『大衆教育社会のゆくえ―学歴主義と平等神話の戦後史 (中公新書)中公新書

とても重要な指摘を引用します。

教育をめぐる議論には共通する特有のスタイルがある。あるべき理想の教育を想定し、そこから現状を批判する。批判そのものにはだれも異論はない。前提となるあるべき教育の理想には、だれも正面からは反対できない崇高な――抽象的な――価値が含まれている。一方、そうした教育の理想を掲げていれば、現実的な問題をどう解決するか、その過程でいかなる副作用が生じるかについての構造的把握を欠いたままでも、私たちは教育について多くを語ることができる。ここに教育をめぐる論議のもうひとつの特徴がある。

……

(教育をめぐる「常識的な」――引用者――)これらの議論の「正しさ」は、事実に照らした妥当性によって保証されるのではなく、社会での通用性によって確保されているのである。
しかも、このような通用性を背後で支えているのが、「本当の教育が実現すれば……」という、〈よきものとしての教育〉の信仰である。


97%が後期中等教育=高等学校へ進学する現在では、だれもが教育を、自らの直接的な経験から語ることができる。教育学者も教育者・教育行政関係者も、〈フリーター〉や〈ニート〉と呼ばれる人たちも「自分の教育論」をもっている。しかし、彼ら・彼女らが語るのは、多くが「理想の教育」「〈本当〉の教育」であり、いわばだれからも反論されない一般論である。
そのような一般論的教育論が「常識」として捉えられ、「妥当性を検証しなくても世の中に通用するものの見方」つまり「神話」を作り上げるのである。そうして「常識的な教育論」を信仰し、その体系を生きる人びと――もちろん自分自身もその成員の一人であるが――によって作り上げられた神話は、〈よきもの〉であるがゆえに批判の視線を受け付けてこなかった。こういった姿勢が教育を論じる時、その論理展開は当然「教育に何ができるか」という方向に規定される。
以上のように教育の常識的な論理を批判的に捉え、神話の構成にまで遡り考察する著者は、「教育に何ができるのかを考えるのではなく、何ができないのかを考えること」と提言する。

本書における著者の主張・批判は、「妥当性」と「通用性」の線引きという点で疑問は残るものの、多くの学問に当てはまるものであろう。

「何ができないか」を考えること。

池内了氏は『物理学と神 (集英社新書)』において、物理学の発展が神の存在証明という信仰に後押しされたものであったことを、非常に明解に、平易に、そして面白く書いていた。
そこに描かれたのは、乱暴に要約してしまえば、初期物理学の営みは否定神学の実践であるということであった。
「何ができないのか」という方法論は、まさに否定神学のそれである。
この春から法科大学院に学ぶ友人の話で、彼は学部時代から哲学に非常に深い造詣を示していたのだが、その彼の話に「法律にできない部分を、(たとえば)臨床心理の研究から助けてもらったり、自分がやってきた哲学が助けになっている」というものがあった。(今日ここで苅谷氏の著作に触れたのも、実は昨日、彼のそんな話を聞いて刺激をうけたからでした)
当該学問で何ができないかを考えることは、学際的研究という流れも手伝って説得性を持つ。しかしそのなかでひとつ納得しかねるのが哲学を一つの学問領域として捉える向きである。そこでは、多くが倫理学として哲学を捉えている。しかし本来哲学とはすべての学問の根本であり、いわば数学も物理学も医学も法学も心理学も、あらゆる固有の領域を持つ学問はすべてが哲学であるといえる。


「何ができないか」を考えるという方法を通して哲学の重要性が確認できたこと、苅谷氏の社会学的洞察もさることながら、友人との対話の大切さを再確認しました。。

なお「妥当性」と「通用性」という言葉から読み取れるのは、著者の実証主義的態度です。
苅谷氏を実証主義と捉えれば、「妥当性の検証」という言葉づかいも、「妥当性」に含まれる「通用性」の意味合いを捨象することも、納得がいきます。

すべての人間は彼女の中におり、彼女はすべての人間の中にいる20050516

自由の哲学 (ちくま学芸文庫)ルドルフ・シュタイナー
先日買ったシュタイナーの『自由の哲学』がとても面白いです。
偉大な哲学者はみな、先達を踏まえているわけですが、シュタイナーも間違いなくその資格を有していますね。
シュタイナーはもともとゲーテ研究者でしたが、いまでは「シュタイナー教育」のほうが有名かもしれませんね。一般的には。


それで、この『自由の哲学』。
神秘主義的世界観はたしかに見られますが、本文で語られているように「霊的経験を考慮する必要はまったくない」です。これまでシュタイナーについてはほとんど何も知らず(知っていたことといえば、神秘主義者で人生の前半にゲーテや哲学を研究していて、後半に霊的なことを発表するようになって、その人間観から「シュタイナー教育」なるものが流行ってきて……と、こんなものでした)、著作をまともに読むのも初めてでした。


まだまだ途中ですが、「思考」についての考察はかなり面白いですね。シュタイナーの思想・世界観に、いま、かなり惹かれてます。


われわれの愛は愛する存在についての表象に基づいている。そして、その表象が理想主義的であればある程、愛はわれわれの心情を充たしてくれる(37)

宇宙が成立する際には思考が脇役しか演じなかったかもしれないが、宇宙観を成立させる際には、どうして思考に主役を割り当てざるを得ない(52)

自由の哲学 (ちくま学芸文庫)
ルドルフ・シュタイナー自由の哲学 (ちくま学芸文庫)

勉強会〜世界と人間の分裂20050519

水曜日は友人と勉強会をしてきました。
久し振りに恩師にも会えて嬉しかったです。先生は忙しい方で、今日も背中から疲れが流出していました。愛情の深い先生で、この先生のもとで研究ができる友人たちが少しうらやましいです。もっとも、いまはこってり絞られているみたいですけど。。。


久々に哲学勉強会。
西洋古代哲学史をまとめていた友人の報告に、まず焦りました。
たしかに原典をあたるというわけでもなく(プラトン以前なんてまず無理でしょうが)、参考文献も充分とはいえませんが、わずか数ヶ月であれだけまとめ、考察できるというのは正直驚きでした。
もちろん彼には素質も、そして何より努力を惜しまない態度がありますから、しっかりした報告をしてくれるとは思っていましたが。
別の友人は今後の研究についての展望を示してくれました。これがまた、なんともセンスの良いテーマで実に面白そうです。
今回は二人の報告で時間も使い切り、用意しておいた私の報告は次回に持ち越しとなりました。
せっかく三時間睡眠で頑張ったのに…………。残念。


古代哲学史では、哲学上の「自然と人間の分裂」がエレア学派より見られるという。
創始期の哲学・ミレトス学派タレスアナクシマンドロスアナクシメネスらにおいては、まだ自然と人間は一体であったわけです。
エレア学派では徐々に自然と人間との対立が見られるようになります。しかしこの頃、アルケーは超越的でありながらも物質的であるという認識のもとに捉えられていたようです。この認識は大変興味深いですね。ギリシャ哲学者たちの「世界観」の深淵が垣間見えます。
はっきりと自然が人間との対立物と捉えられるようになるのはデモクリトスの哲学においてのようですが、ともかく、マクロレヴェル(系統的次元?)ではこの時代に人間と自然は分裂し始めたようです。
この「人間と自然の分裂」についてミクロレヴェル(個体的次元?)で捉えたのが、シュタイナーの「思考」をめぐる議論の中に見られます。
シュタイナーによれば、存在全体の分裂は思考の働きによって引き起こされます。
まず、思考の働きは認識衝動という充たされぬ要求を導きます。この認識衝動とは、感覚的に直接与えられているものに留まらず、それ以外の余剰の部分(いまだ認識されざる部分)をも求めるという働きを示しています。
そして「いまだ認識されざる部分」が、己の思考・認識・操作の及ばない「自己の外部」として捉えられ、人間もその一部とされる「自然」という存在全体が、人間と自然というふうに分裂するのです。
シュタイナーは、この分裂を「人間の意識上のこと」と捉えているのでしょうか。つまり、この「分裂」はあくまで人間が信憑しているだけのことであると捉えているのでしょうか、それとも(人間の)思考によって自然と人間は真なる意味で分裂してしまったと捉えているのでしょうか
いずれにせよ、人間精神の努力は、この分裂した自然と人間との対立を橋渡ししようとする行為なのだそうです。シュタイナーによれば、ここから二元論・一元論(唯物論・唯心論…)が現出するとされます。


シュタイナーの神秘主義的思想は「われわれは自然へ帰る道を再び見つけ出さなければならない」という主張にも見られますが、「自然=一者」からの「分裂=流出」という(シュタイナーの)捉え方の基礎は、エレア学派・デモクリトスあたりに求められるのかもしれませんね。今後の課題としておきます。


今回もとても有意義な勉強会でした。
やはり、忌憚なく意見を言い合える仲間は私の宝です。

そうそう、今回ははじめてオブザーバーも来てくれました。
新しい風が入ってくると気持ちがいいですね。これから勉強会に引きずり込もうと思っています(笑)