勉強会〜世界と人間の分裂20050519

水曜日は友人と勉強会をしてきました。
久し振りに恩師にも会えて嬉しかったです。先生は忙しい方で、今日も背中から疲れが流出していました。愛情の深い先生で、この先生のもとで研究ができる友人たちが少しうらやましいです。もっとも、いまはこってり絞られているみたいですけど。。。


久々に哲学勉強会。
西洋古代哲学史をまとめていた友人の報告に、まず焦りました。
たしかに原典をあたるというわけでもなく(プラトン以前なんてまず無理でしょうが)、参考文献も充分とはいえませんが、わずか数ヶ月であれだけまとめ、考察できるというのは正直驚きでした。
もちろん彼には素質も、そして何より努力を惜しまない態度がありますから、しっかりした報告をしてくれるとは思っていましたが。
別の友人は今後の研究についての展望を示してくれました。これがまた、なんともセンスの良いテーマで実に面白そうです。
今回は二人の報告で時間も使い切り、用意しておいた私の報告は次回に持ち越しとなりました。
せっかく三時間睡眠で頑張ったのに…………。残念。


古代哲学史では、哲学上の「自然と人間の分裂」がエレア学派より見られるという。
創始期の哲学・ミレトス学派タレスアナクシマンドロスアナクシメネスらにおいては、まだ自然と人間は一体であったわけです。
エレア学派では徐々に自然と人間との対立が見られるようになります。しかしこの頃、アルケーは超越的でありながらも物質的であるという認識のもとに捉えられていたようです。この認識は大変興味深いですね。ギリシャ哲学者たちの「世界観」の深淵が垣間見えます。
はっきりと自然が人間との対立物と捉えられるようになるのはデモクリトスの哲学においてのようですが、ともかく、マクロレヴェル(系統的次元?)ではこの時代に人間と自然は分裂し始めたようです。
この「人間と自然の分裂」についてミクロレヴェル(個体的次元?)で捉えたのが、シュタイナーの「思考」をめぐる議論の中に見られます。
シュタイナーによれば、存在全体の分裂は思考の働きによって引き起こされます。
まず、思考の働きは認識衝動という充たされぬ要求を導きます。この認識衝動とは、感覚的に直接与えられているものに留まらず、それ以外の余剰の部分(いまだ認識されざる部分)をも求めるという働きを示しています。
そして「いまだ認識されざる部分」が、己の思考・認識・操作の及ばない「自己の外部」として捉えられ、人間もその一部とされる「自然」という存在全体が、人間と自然というふうに分裂するのです。
シュタイナーは、この分裂を「人間の意識上のこと」と捉えているのでしょうか。つまり、この「分裂」はあくまで人間が信憑しているだけのことであると捉えているのでしょうか、それとも(人間の)思考によって自然と人間は真なる意味で分裂してしまったと捉えているのでしょうか
いずれにせよ、人間精神の努力は、この分裂した自然と人間との対立を橋渡ししようとする行為なのだそうです。シュタイナーによれば、ここから二元論・一元論(唯物論・唯心論…)が現出するとされます。


シュタイナーの神秘主義的思想は「われわれは自然へ帰る道を再び見つけ出さなければならない」という主張にも見られますが、「自然=一者」からの「分裂=流出」という(シュタイナーの)捉え方の基礎は、エレア学派・デモクリトスあたりに求められるのかもしれませんね。今後の課題としておきます。


今回もとても有意義な勉強会でした。
やはり、忌憚なく意見を言い合える仲間は私の宝です。

そうそう、今回ははじめてオブザーバーも来てくれました。
新しい風が入ってくると気持ちがいいですね。これから勉強会に引きずり込もうと思っています(笑)